1997年 夏
高校1年の夏休みに入り、自宅の電話が鳴った。
「麻山だけど、大策、極真の大会でてみないか?」
「押忍!」
「わかった、じゃあ申し込んどくから」
「押忍!」
真夏の炎天下の中、気合を入れて走りに行った私は、気合が空回りし、熱射病になった。
出場した大会は、極真会館の主宰する大会の高校生の部だった。
大会の名前は忘れてしまったが、大阪中央体育館で開催され、極真会館の他にも、他流派の空手団体が出場しているオープントーナメントであった。
大会に向け、普段の稽古に加えて朝練をして、麻山先生に直接稽古をつけてもらった。
きつい稽古だった事を覚えている。
大会当日、道場から麻山先生をはじめ、当時の先輩方も応援に駆けつけてくれていた。
結果は三位だった。
準決勝で判定で負け、三位決定戦は不戦勝だった。
不戦勝が決まった瞬間、まだ試合場から降りていないのに、涙があふれて止められなかった。
人目をはばからずに、子供のように泣きじゃくった。
負けたままで、終わってしまうのが、悔しくてしょうがなかった。
せめて最後は、勝って終わりたかったのだと思う。
そのときは、何故涙がでてくるのか、よくわからなかったが、今思うときっとそういうことだったんだろう。
麻山先生は「何で泣くんだ、がんばったんだろう?他流派の大会で実績を出してくれて、俺は嬉しいよ、な、嬉しいだろう?」
その先生の言葉に「押忍」と答え、私は泣き止んだ。
その数ヶ月後に、円心会館の関西大会が、武道館ひびきで開催され、初めて一般の部に出場した。
一回戦敗退。また負けた・・・
勉強は嫌い、スポーツも苦手、人付き合いも苦手。
でも「空手で、優勝できて、喧嘩が強けりゃいいや」と思っていた。
その空手もダメだった。
それから半年間ほど稽古をさぼった。
「行ってきます」といつものように道場に出かける振りをして、友達と遊んでいた。
そして、さぼっていたのがばれないように、帰りに道着をクシャクシャにして、水をかけて湿らした。
ある日、仕事帰りの父が、こっそり道場を見に来た時に私の姿がなく、指導員の先生に
「ウチの大策はきてませんか?」とたずねた。
「いや、大策君はここ数ヶ月道場に来ていませんよ」という答えが返ってきたらしい。
その日も、いつも通りに道着を、クシャクシャにして家に帰ったら、
「どこ行ってたんや」と父の声。
「え、道場やけど・・」
「どこの道場や」・・・・・・ばれた!!
その後、父に呼び出された、嘘をついていた事、いつも使ってもいない道着を、母に洗濯させていた事はこっぴどく怒られたが、空手をやっていないことについては怒られなかった。
「どうするんや」という父の質問に、いい加減な屁理屈をつけて「もうやめたい」と私は言った。
その答えに「自分でやるって言い出したんやから、まだ茶帯やろ、とりあえず黒帯をとれ、黒帯とったら後は自分で決めたらいい」と言われた。
てっきり、ぶん殴られると思っていたのに、拍子抜けしてしまうくらい、普通に話していた父にびっくりした。
しかし、今でもあの時の父の悲しそうな顔は覚えている。
すると、ある日、家のチャイムが鳴った。
「麻山ですけど、大策君いますか」
麻山先生だ!!これは完全に怒られる!!と、ビビリながらも恐る恐る玄関に行くと、
「おお!久しぶりだな、どうしたんだ、そんな覇気の無い顔して、今度全日本大会やるんだ、これにお前も出したかったんだよ」と、全日本大会のポスターを見せてくれた。
「まあ、また気が向いたら道場にこいよ」と、それ以上何も言わずに帰っていかれた。
「先生すいませんでした」
「過ぎたことはもういいんだよ、これからどうするかで決まるんだ、大策、がんばれよ」
「押忍」
父と麻山先生が、このことで私を叱ることは無かった。
今、広島支部長として、この時の父と先生がなぜ叱らなかったがよくわかる。
その気持ちに気づけた事だけでも、空手家になってよかったなと思う。
その後、私は1999年の関西大会で優勝し、2000年の全日本大会に出場することになった。
そしてその大会で、私の人生を決定付ける出会いが待っていた。
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